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「悔しさ」を原動力に変えて。覚悟の起業が、障がいのある子と親を明るく照らす

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ママになっても「自分自身も大切にしてほしい」――

 

そんな想いを掲げるネオママイズムが、さまざまなママの姿をお届けするneomamaismインタビューブログ。

 

Vol.31となる今回は、徳島県徳島市で保育事業を展開する太田恵理子さんがゲストです。

 

妊娠中、おなかの赤ちゃんが「水頭症」だと判明した太田さん。生まれてきたわが子には障がいがあり、長期間の入院とリハビリが必要な状態でした。太田さんは、産休に入る前から「育児と仕事の両立」を望んでいましたが、障がいのある子を受け入れてくれる保育園が見つからず、やむなく退職を選択することに…。

 

しかし、その時に感じた悔しさをバネに、起業を決意し、「障がいがある子どもでも入れる施設をつくろう」と、児童発達支援事業所を設立。その後も事業を拡大しながら社会課題と向き合っています。

 

子育ての中から気づきを得て起業した太田さんに、現在までの歩みや子育てエピソード、事業に向ける思いについて伺いました。

 

 

医師からの言葉に絶望。妊娠6カ月でわが子の病気を告げられて…

 

――まずは、太田さんのこれまでのご経歴を教えてください。

 

香川大学を卒業後、厨房機器を取り扱う会社に就職し、営業として働いていました。仕事は忙しく、ハードな環境ではありましたが、社内には子育てをしながら働いている女性も多く、31歳で息子を授かったときも、「子育てと仕事を両立させたい」と考えていました。

  

――お子さんの病気が判明したのが、妊娠6カ月のときだったと伺っています。当時の様子をお聞かせください。

 

妊娠5カ月までの検診では、特に異常はありませんでした。しかし、6カ月目の検診中、エコー検査をしている先生の手がピタリと止まって…。「赤ちゃんの脳が形成されていません。水頭症の可能性が高いです」と告げられました。

 

――病名を知り、どのようなお気持ちになりましたか。

 

初めて耳にする病名に、激しく動揺したことを覚えています。「産まれてくる子どもは、どうなってしまうのだろう…」と不安ばかりが募りました。

 

その後、先生から説明を聞き、「水頭症とは脳が形成される部分に水が溜まる病気」だということや、「胎児期に発症した場合は、溜まった水が圧迫するため脳が形成されない状況になる」ということを知りました。さらに、「水頭症の赤ちゃんは、出産前に亡くなってしまう場合もあるし、無事に出産できても自発呼吸ができない可能性もある」とも…。目の前が真っ白になり、絶望的な気持ちになりました。

 

――どのように気持ちを切り替えたのですか?

 

ある日、SNSで検索をしていたら、水頭症の子の育児をしている人の投稿を見つけたんです。水頭症のお子さんが、元気に成長している様子を見た瞬間、私とおなかの赤ちゃんの未来にも希望を感じることができて…。

 

その後、SNSで水頭症や障がい児の子育てをしている人を見つけてはDMを送り、「どのように不安を乗り越えましたか?」「今どのように生活していますか?」など、質問をするようになりました。そうして、体験談を聞くうちに、心が前を向けるようになっていったんです。

 

 

――同じ境遇の人からの言葉に励まされたのですね。

 

そうですね。「つらさ」を抱えている人に響く言葉は、同じ体験をした人の「共感」なんだなと実感しました。

 

その後、大学病院に転院して帝王切開で出産したのですが、息子の泣き声を聞いたときはすごく嬉しくて。「生きている!」ということがわかり、涙があふれました。

 

ただ、生まれた直後の息子は、頭の形がいびつで、ほかの赤ちゃんの2倍くらいの大きさに腫れていました。私の両親も、生まれたばかりの息子と対面しましたが、ショックが大きかったらしく「とてもお祝いムードにはなれなかった」と後日話していました。

 

2回の手術を経て…。「できることが増えるたびに幸せを感じた」

 

――産後、息子さんはどのような処置を受けたのですか?

 

出産の翌日に1回目の手術、さらに生後3カ月のときに2回目の手術を行い、頭に水が溜まらないようにするための処置をしてもらいました。息子は、生後4カ月まで入院していたのですが、その期間、私は1日2回、搾乳した母乳を病院に届ける日々。

 

自宅から10分程度の距離に病院があったことは幸運でしたが、息子を抱っこすることもできず、夜中に泣き声で起こされることもなく、数時間ごとに設定したアラームを合図に、搾乳機で搾乳し続ける毎日に、やるせなさを感じていました。だから、息子が退院したときは、今後の生活に不安もありましたが、「息子を抱いて授乳ができる」ということに喜びを感じていました。

 

 

――息子さんが退院してからの育児はいかがでしたか?

 

頭の中に水が溜まらないような処置をしてもらったことで、徐々に脳が作られていき、息子の動作にも変化が見られるようになりました。笑顔を見せてくれたり、手でものをつかめるようになるなど、できることがどんどん増え、その度に、私は幸せを噛み締めることができました。

 

とはいえ、ほかの子と比べると息子の発達は遅く、首が座ったのも生後11カ月ごろ。その後の発達も緩やかで、今年8歳になった息子ですが、知能の発達具合は6歳くらいの子と一緒です。

 

また、生後6カ月頃からリハビリを始めたのですが、乳幼児のリハビリができる施設が近所にはなく、車で40分の距離にある施設に週2回通うことに。同時に、職場に復帰することを視野に入れて、息子の預け先を探し始めたのですが、障がいのある0歳の子どもを受け入れてくれるところは見つかりませんでした。結果的に、重度の心身障がい児が通う療育施設に通うことになったのですが、その施設は、「母子同伴」が通所の条件。当初の希望とは異なりましたが、息子の発達に必要な支援を受けるため、リハビリ以外の日は、私が付き添って療育へ通うようになりました。

 

――リハビリと療育への通所で、日々のスケジュールが埋まっていったのですね。

 

そうですね。まったく自分の時間が取れないことがつらく、疲れとストレスを感じていました。でも、療育に通い始めたおかげで、障がいのある子を持つお母さん方と知り合うことができました。

 

お母さん同士とつながりを持てたことで、小学校や病院のことなどの情報を得ることができましたし、「重度心身障がい児向けの施設が少なくて、預け先に困っている」というリアルな悩みも聞くことができました。当時のお母さん方の「こうだったらいいのに」という声が、現在の事業にもつながっていると感じています。

 

「どこにもサービスがないのなら、私がつくろう」。退職を機に起業を決意

 

――出産から1年後に起業を決意したとのことですが、それまでの経緯について教えてください。

 

息子が1歳になるころ、「そろそろ職場に戻りたい」と考えるようになりましたが、やはり預け先が見つからず、退職せざるを得ない状況に…。これまで築いてきたキャリアが閉ざされたようで、悔しさと悲しさを味わいました。

 

退職後しばらくは、悶々とした日々を送っていたのですが、ある時、テレビで「保育園に落ちたお母さんが、自分で保育園を作った」という特集に目が留まって。その瞬間、「私も自分で作ろう!」と、起業を決意したんです。その後は、息子のリハビリと療育に通いながら、独学で保育士の資格を取得したり、起業を志す人たちが集まるコミュニティーに参加して情報を集めたりしながら、準備を進めていきました。

 

そして2019年4月、0歳の障がい児も受け入れ可能な、親子分離型の児童発達支援事業所を開設。理学療法士と作業療法士が常駐し、子どもを預けている時間で療育やリハビリができる体制を整えました。

 

その後も、重度の障がい児や医療的ケアが必要な子を受け入れられる施設や、障がいの有無にかかわらず、インクルーシブ保育を実践するリハビリ付き認可保育園などを開設し、事業を拡大していきました。

 

 

 

――「どんな子でも預け先がある」という姿勢を示す太田さんの事業は、たくさんの親子の希望になっていると思います。

 

子どもに障がいがあると知ったとき、「子どもと自分の将来の不安」から、落ち込んだり絶望したりする人も多いと思うんです。でも、「障がいがある子どもにも居場所がある」と思うことができれば、その落胆や絶望は希望に変わり、親も「自分の人生」を歩めるようになるはずです。そのために、私は「社会や親子を照らす希望の光になりたい」という理念を掲げ、支えてくれるスタッフと一丸となって、事業に取り組んでいます。

 

――子育てと起業準備を両立させるのは大変だったのではないでしょうか。どのように時間を作っていたのですか?

 

あの頃は、記憶にないほど忙しかったです。でも、起業準備が佳境に入ったころ、療育施設と相談して「母子分離」で通えることになったので、なんとか時間を捻出することができました。それまでは、週3日、1日5時間を母子同伴の療育に費やしていたので、その時間を起業準備に充てられたのは、ありがたかったですね。

 

 

「今よりもっと優しい社会に…」小学校就学後の環境にも視野を向けて

 

――今、お子さんは小学2年生とのことですが、どのような生活を送っていますか?

 

息子が5歳になるころに離婚をしたため、現在、息子は元夫の家で生活しながら、地元の小学校の支援学級に通っています。ただ、離婚する際、「共同で養育する」という約束を取り決めていたので、2日交代で「パパの日」と「ママの日」を決めて息子との時間を作り、私が担当の日には元夫の家に出向いて息子と過ごしています。

 

身長が伸び、体が成長してきたことで、息子の頭の形は以前ほど目立たなくなってきました。でも最近、「僕の頭の中には、水がいっぱいある」と話すこともあり、自分の病気のことを自覚しつつあるのだろうなと感じています。病気についてはゆっくり向き合っていけばいいと思いますし、今後の人生も、息子のペースで自由に歩んでいってほしいですね。

 

 

――今後、新しくチャレンジしたいことを教えてください。

 

今後は、「障がいのある子のための、小学校就学後の環境づくり」にも力を入れていきたいと思っています。

 

小学生になると、「障がいのない子は、通常学級。障がいがある子は、特別支援学校や特別支援学級」というように、環境が分断されてしまいます。私は、障がいの有無で環境を分けてしまうことは、障がい児への偏見や差別意識を強めてしまうのではないかと懸念しています。

 

障がいの有無にかかわらず、みんなが一緒に過ごせる場所を作ることができれば、障がいのない子たちにとっては「障がい」を理解し、より身近に感じられるようになりますし、障がいがある子たちにとっては、今よりも生きやすい環境になるはずです。例えば、小学生が放課後に通う「学童保育」や、障がいのある子が放課後に通う「放課後等デイサービス」を一体化させたようなインクルーシブな場所をつくるなど、今よりもっと優しい社会を目指して、支援の輪を広げていけたらと考えています。

 

 

太田恵理子様の役に立ったおすすめグッズ

 

(1)  ピジョン「電動搾乳機」

https://pigeon.info/breastpump/item/handyfit.html

 

手動に比べて、楽に搾乳できました。息子が入院しているとき、3時間に1回搾乳していたのでとても重宝しました。

 

(2)  ニチバン「アトファイン」

https://atofine.jp/lineup/atofine/

 

帝王切開の傷あとは残りやすいと聞いていたので、術後のケア用に、このテープを使っていました。

 

 

プロフィール

 

太田恵理子

株式会社ハビリテ代表取締役

 1986年生まれ、徳島県出身。香川大学を卒業後、厨房機器を扱うホシザキ四国株式会社へ就職。31歳のときに長男を授かり、妊娠6カ月のときに「水頭症」であることを告げられる。産後、障がいを理由に保育園に入園することができず、2018年、職場復帰を断念して退職。同年、合同会社ハビリテ(現・株式会社ハビリテ)設立。2019年、児童発達支援事業所「おやこ支援室ゆずりは」を開設し、その後、「ゆずりはcareplus(現・ゆずりはplus)」、「徳島市認可保育園『ゆずりは保育園』」を開設。2025年には、「小児特化訪問看護事業」をスタートさせるなど、事業を拡大している。

https://yuzu-reha.jp/

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